いろんなところをまたいで仕事するのに、タスク管理と見える化が悩ましい。どうするかなー。
そろそろ
いのさんの日記が投稿されてもいい頃合い。
うちのソテツキリンさんを落下させてしまった
洗濯中に植物をおいてる棚に腰をぶつけてその反動でソテツキリンさんが落下。鉢からとびだし、床に置いてあった洗濯ものも部屋も土まみれに。ひろえるだけの土をいそいでかき集めて根っこがあらわになってしまったソテツキリンさんを鉢にもどし、土をいれ水をあたえて土を固めてソテツキリンさんの姿勢をもとにもどした。だいじょうぶかなあ…。しんぱい。
今日は。
後輩ちゃんたちからちょっとちやほやされたのでいい気分です。
ブログのトップページって
なんでいまだにランダム表示にならないんだろう
UFO
を見たことがあるといのさんが言っています。
丸腰の自由
手ぶらの生活を始めて二ヶ月がたった。その前となにも変わらないようでもあるし、とても変わったようでもある。
一応、僕の中の手ぶらの定義をしておくと、「今日必要かもしれないものは持たない」ということだ。「必ず必要なもの」以外は持たない。これをすると持ち物はほとんどポケットに収まる程度の量にしかならない。
ちなみに最近の僕の持ち物は、スイカのついた iPhone と家の鍵。
以上。
こうして生活してると、どこに行ってもどこか「近所感」がでてくるのが面白い。
どんなに知らない町を歩いても「近所の散歩」なのだ。
道玄坂を歩いてる近所の奴。
弁当屋に並んでる近所の奴。
コンビニで水を買ってる近所の奴。
十代の時にテントひとつ持ってバイクで日本中をまわっていた頃の感覚を思い出す。
「必要かもしれない」しがらみから解放されると、いつの間にか、自分の体がいま「ここ」から360度いつでもどこへでも進める自由なものであることを実感するようになる。(所持金がとても少ないのにかかわらず!)
そもそも「必要かもしれない」ものは、未知の危機を回避するための「武器」である。
それは「知恵」と呼べるものなのかもしれない。
その「知恵」的な「武器」を捨ててしまうのはちょっとどうかしているとも思う。
大人たちはどうかしてると(たぶん)言うだろう。
だが、「武器」を持たない丸腰の者は、簡単にやられてしまう危険を背負うかわりに、
どこへでも行ける自由と、他人に容易に受け入れられる柔軟性を持てるようになるのではないだろうか。
バイクの旅の時の危機はいつも誰かに受け入れられて助けられてたように。
実際はどちらがいいのかはなんとも言えないのだが、いまはこのこの感覚をとても好もしく思っている。
少し酸素が吸いやすくなったような感じがする。
生活のマージンがちょっと広がったような感じがする。
手放すという自由。
この丸腰の生活をもうちょっとだけ続けてみようと思う。
#デザインとはなんにも関係ない
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コミュニケーションはスタンプで、ニュースは3分で、世の情報はどんどんLightweightになっていくなかで、Mediumのようなサービスがあるのが嬉しい。というようなことを最近よく考える。
机をキレイにするということ
机をキレイにするとあらゆることがうまくいくようになります。ダマされたと思ってやってみてください。いきなりあらゆることがうまくいかないかもしれませんが、とりあえず机がキレイになります。