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レジスタンスの旗印

【交易】(名)お互いに物品の交換や売買をすること 大辞林

交易は、お互いの損益の均衡がとれることが確認されてから始まったように思われそうだけど、でもその原始的な始まりはちょっと違う。

あるコミュティAとコミュニティBとの原始的な交易は、
お互いが会い、話し合って、納得してという手順では始まらなかった。
では、どうやって始まったのか。
それは、コミュニティAの人間が、コミュニティBとの境界線に自分が持っているモノをただ置いたことから始まった。
(誰が取りにくるかもわからないし、ひょっとすると見つけてもらえないかもしれない状況なのにもかかわらず)

境界線に置かれたモノはしばらく見つからないまま放置されたが、
やがてコミュニティBの人間に発見され、持ち去られることになる。
コミュニティAは、諦めることなくさらにモノをその境界線に置き続けた。
そしてあるとき、コミュニティBが初めて自分もそこへモノを置くようになった。
ここでコミュニティAもコミュニティBもお互いのモノを手に入れることになり、
ようやく交易が成立する。

もし、この原始の交易の話が事実なら、
いま僕らの世界で行われている資本主義経済における自由交易や、
消費活動の始まりは、自分の利益を手に入れることを優先した結果始まったのではく、
自分の利益を計算に入れずに、まず「手放す」ということから始まっているということになる。

ちょっと不思議な感じがする。
経済活動とは「得る」ことを前提にしているとどこかで勝手に思ってるからだ。
だけど一方で交易とはコミュニケーションの一部だと考えてみると、
少しも不思議じゃない。
なぜなら、コミュニケーションは誰かが話かけてくれるとこを待っているだけでは始まらないからだ。
いつも誰かが話しかけることから始まる。
そして、その「話す」の語源も「離す・放す」なのである。
まず自分がもっているもの(物質も情報も含めて)を自分側から「手放す」ことで、
交易もコミュニケーションも始まるのだ。

いまの世の中、ほとんどの消費活動(ウェブサービスも含めて)は、
消費者が「得る」ことを動機付けとして提案されるのが当たり前となり、
お金を払ってもらうのに「手放すことから始めてください」なんてコミュニケーションはほとんど通じない。(し、あまり聞かない)
「お金を払ってもらえれば、あなたにはこれをあげます」
これがいたって普通の消費コミュニケーションだと思う。

ここで突然「レター」の話をしてしまうけど、
「レター」と「ノハナ」や「TOLOT」との違いを教えてくださいと聞かれることがある。
ほとんどの場合、その聞き手は、写真の枚数や継続課金モデル設計、写真品質の違いの話を聞きたがっているが、
個人的にはもっと根本的に違うものがあると思っている。

それは、前に書いた「得る」ことから始める設計なのか、
「手放す」とこから始める設計なのかということだ。

じつを言うとレターは、「手放す(贈る)」ことから始めるサービスであり、
基本設計的には消費者の手元には何も残らない(自分に贈るというオプションもあるが)。
自分の親しい人に贈るということだけで完結してしまう。
そして僕らは消費者に「あなたの手元には何も残りませんが、お金を払ってください」と言っている。
我ながらちょっと無謀なコミュニケーションだなとは感じているが、
「手放す」ことから世の中をちょっと動かしたりはできないのだろうかと思ったのだ。

- 手に入れるためにあくせくする世界
- 手放すことから語り始める世界

この二つの世界があるとしたら、
僕は後者の世界の方が豊かなのではないかと思っている。

高度資本主義のなかで最適化されつつある今の世界では、
その実現は難しいのかもしれない。
だけど、「手に入れるためにあくせくする世界」をそう簡単に認めてしまう訳にはいかないのだ。

世の常どおり、レジスタンスは少数であり、弱く、弊社もこの例に漏れない。
でももう一歩踏み込めるかもしれない。
ただもうちょっと戦ってみたいのだ。

「レター」のロゴマーク。
あのはためきは、この弱きレジスタンスの旗印(*)なのである。
イエイ。

*注:投稿者の妄想であり、レターのロゴマークは手紙をイメージして作成されています。

#デザインとちょっとだけ関係あるかも