一度もデザインを教えるということをしたことがないので一度でいいからやってみたいという欲求があるようなないような。そんな感じ。
いざその立場になったらどこからなにを伝えればいいんだろうとか。ほんとのところを言うと教えたいわけではなくてそうすることであらためて勉強できそうでいいなということが大きいんだけど。
一度もデザインを教えるということをしたことがないので一度でいいからやってみたいという欲求があるようなないような。そんな感じ。
いざその立場になったらどこからなにを伝えればいいんだろうとか。ほんとのところを言うと教えたいわけではなくてそうすることであらためて勉強できそうでいいなということが大きいんだけど。
存続の危機。
デザイナーの評価だけでもどうするのが最適解なのかむつかしいのに、会社ともなると当然デザイナー以外の職種のひとたちもたくさんいて、たくさんのいろんなひとたちをある基準、制度にもとづいて評価される/することが必要になってくる。これは大変なことです。
nanapiに、Facebook、Googleなどがどういった評価制度を取り入れているのか紹介する記事があったので貼っておきます。
最先端はリアルタイム評価?Facebook、Googleの人事評価制度を調べてみた | nanapi TechBlog
結論からいうと結局むつかしい、という話なんですが。
評価基準というか、方針がまずありきだということはなんとなくわかりました。その会社の思想、あるいは描いている将来像・ビジョン、そのビジョンを実現、あるいはそこに邁進していくにはどんな人材が必要でどんな仕事ぶりを期待するのか。
自分のことでいうと、設立から50年以上経っている、デザイン会社としては老舗の会社にいながらも、それでもいちデザイナー、いちサラリーマン的には納得しづらい人事評価だと感じることは少なくない。良い意味でも悪い意味でも「なんであのひとが(良い/悪い評価なの)」という意味で。
先に挙げたGoogleの評価制度は興味深いとおもって、ぜひGoogleのデザイナーにそのあたりのお話を伺ってみたいなとおもった次第でした。
http://deza.hateblo.jp/entry/2014/08/14/124408
この感じ、自分の中で大事になってきてて、いろんなタイミングで思い出す。悪くない。
かなさん。ここはひとつ。
よろしくお願いいたします。
やまりんさんに声かけてもらってフットサルに参加してきた。フットサルやるの2、3年ぶり。体力がなく踏ん張れないせいでよく転ぶ。ひざとひじを殴打しすり傷もできたけど想定の範囲内。とにかく脚がおぼつかない。
フットサルとサッカーはぜんぜん違う。脚しか使ってはいけないしボールはひとつだしボールをゴールに決めれば得点になるのはおなじだけど、コートの広さも違えばスパイクも違えばボールの大きさも時間も人数も、それからルールも違う。別のスポーツだから違うの当然と言えばそうなんだけど。
ルール含めてこれだけ状況が違うと、戦術も、ゲームを有利にすすめるための技術も、サッカーとはまるで変わってくる。共通してるのは上に挙げた以外で言えば体力とスピード、瞬時に状況を判断する能力とアイデア、それからもちろん基礎技術の高さ。
と、ここまで書いてなんとかデザインの話しに繋げようとしたけど飽きてきたから突然おしまいにします。
ご静聴ありがとうございました。
存続の危機。
いろいろと変化もあったからか、とりとめなく思いを巡らすことが多くなった気がする。この間、ジャッジにもいろいろある、否定よりも物事・人の面白い側面を見て生かしていくのはすごく編集者的だというような話になって、なるヘソと思った。そういう方がいい。もうとりあえず全部許すみたいな。できたら、なんにしろ、そういう感じがいい。そんな心境。
先日リリースした某神宮。
当初思ってたより多くの方に楽しんでいただいているようで嬉しいかぎりです。
商品作成数、会員登録数、知名度の向上・・・なんていう表向き(社内向き)な理由とは別に、個人的に込めた想いがありました。
それは「人間が機械(プログラム)に支配される世界をちょっと覗いてみたい。」っていう、プチ・マッドサイエンティスティックな気持ちです。
「Twitter 連携すれば自分のツイートを商品に出来る。」ってことは、(だいぶ語弊があるのは承知の上で)大きく言い換えると「自分がなにもしなくても機械的に商売が出来てしまう。」ということです。
ゆくゆくは過去のすべてのツイートを商品にすることも、bot を使って完全に自動的に大量の商品を作ることだって出来るはずです。(API の回数制限はあるけれども)
またツイートを変換したりグリッチするスクリプトを使えば、自分で意図すらしていなかった商品を生み出し、それを自分のアカウントで販売し始めることが出来てしまいます。
そして誰かがその商品を気に入って購入すれば、実際に工場の生産ラインが動きだし、物質的商品が出来上がり、梱包されて配送されます。
つまり「機械によって意図せず生み出されたモノによって、人間が実際に動かされ(労働させられ)、経済活動に影響を与える」ことが起こりうるわけです。
それってまるで「ブレードランナー」じゃないか!
人間の尊厳とは?創造性とはなんなんだ?
神宮からレプリカントと人間の戦いが始まるんだ。
カミングスーーン。
日々、そんなことを考えながら仕事をしています。
自分にとってデザイナーって職業ではなくて、生き方のスタンスなんです。
だから、生涯デザイナーという軸はぶらさないでいきたいし、たぶん自然とそうなるだろうと思います。
属する組織の規模やフェーズなどで、いろんな役割を求められたり、むずかしい肩書きが付いてくることもあると思うけど、あらゆることはデザインだという目線さえ持っていれば、まあそんなにおかしなことにはならないんじゃないかな、と思ったりしています。
えらそうに大変失礼いたしました。
タダノノミカイダーーー!!!!!
かなさんの日記が火を噴いてもいい頃合い。
【交易】(名)お互いに物品の交換や売買をすること 大辞林
交易は、お互いの損益の均衡がとれることが確認されてから始まったように思われそうだけど、でもその原始的な始まりはちょっと違う。
あるコミュティAとコミュニティBとの原始的な交易は、
お互いが会い、話し合って、納得してという手順では始まらなかった。
では、どうやって始まったのか。
それは、コミュニティAの人間が、コミュニティBとの境界線に自分が持っているモノをただ置いたことから始まった。
(誰が取りにくるかもわからないし、ひょっとすると見つけてもらえないかもしれない状況なのにもかかわらず)
境界線に置かれたモノはしばらく見つからないまま放置されたが、
やがてコミュニティBの人間に発見され、持ち去られることになる。
コミュニティAは、諦めることなくさらにモノをその境界線に置き続けた。
そしてあるとき、コミュニティBが初めて自分もそこへモノを置くようになった。
ここでコミュニティAもコミュニティBもお互いのモノを手に入れることになり、
ようやく交易が成立する。
もし、この原始の交易の話が事実なら、
いま僕らの世界で行われている資本主義経済における自由交易や、
消費活動の始まりは、自分の利益を手に入れることを優先した結果始まったのではく、
自分の利益を計算に入れずに、まず「手放す」ということから始まっているということになる。
ちょっと不思議な感じがする。
経済活動とは「得る」ことを前提にしているとどこかで勝手に思ってるからだ。
だけど一方で交易とはコミュニケーションの一部だと考えてみると、
少しも不思議じゃない。
なぜなら、コミュニケーションは誰かが話かけてくれるとこを待っているだけでは始まらないからだ。
いつも誰かが話しかけることから始まる。
そして、その「話す」の語源も「離す・放す」なのである。
まず自分がもっているもの(物質も情報も含めて)を自分側から「手放す」ことで、
交易もコミュニケーションも始まるのだ。
いまの世の中、ほとんどの消費活動(ウェブサービスも含めて)は、
消費者が「得る」ことを動機付けとして提案されるのが当たり前となり、
お金を払ってもらうのに「手放すことから始めてください」なんてコミュニケーションはほとんど通じない。(し、あまり聞かない)
「お金を払ってもらえれば、あなたにはこれをあげます」
これがいたって普通の消費コミュニケーションだと思う。
ここで突然「レター」の話をしてしまうけど、
「レター」と「ノハナ」や「TOLOT」との違いを教えてくださいと聞かれることがある。
ほとんどの場合、その聞き手は、写真の枚数や継続課金モデル設計、写真品質の違いの話を聞きたがっているが、
個人的にはもっと根本的に違うものがあると思っている。
それは、前に書いた「得る」ことから始める設計なのか、
「手放す」とこから始める設計なのかということだ。
じつを言うとレターは、「手放す(贈る)」ことから始めるサービスであり、
基本設計的には消費者の手元には何も残らない(自分に贈るというオプションもあるが)。
自分の親しい人に贈るということだけで完結してしまう。
そして僕らは消費者に「あなたの手元には何も残りませんが、お金を払ってください」と言っている。
我ながらちょっと無謀なコミュニケーションだなとは感じているが、
「手放す」ことから世の中をちょっと動かしたりはできないのだろうかと思ったのだ。
- 手に入れるためにあくせくする世界
- 手放すことから語り始める世界
この二つの世界があるとしたら、
僕は後者の世界の方が豊かなのではないかと思っている。
高度資本主義のなかで最適化されつつある今の世界では、
その実現は難しいのかもしれない。
だけど、「手に入れるためにあくせくする世界」をそう簡単に認めてしまう訳にはいかないのだ。
世の常どおり、レジスタンスは少数であり、弱く、弊社もこの例に漏れない。
でももう一歩踏み込めるかもしれない。
ただもうちょっと戦ってみたいのだ。
「レター」のロゴマーク。
あのはためきは、この弱きレジスタンスの旗印(*)なのである。
イエイ。
*注:投稿者の妄想であり、レターのロゴマークは手紙をイメージして作成されています。
#デザインとちょっとだけ関係あるかも
ずーっとやりたかった、デザイナさんの評価制度や成長指標の策定に向けて動きはじめた。
どういうやり方がいいのか、実際うまく機能するのかさっぱり分からないけど、大きな一歩なのではないかな。